ホームへ戻る

(およそ3000字)
このページには、『邪馬台国総合説 赤椀の世直し』序章第七節の全文が掲載されています。文字に記された日本古代の歴史が、なぜ理解困難な形になってしまっているか、その構造的問題が述べられています。


第七節「連座回避の行為」を見抜くこと・・古代史理解における重要な観点

 弥生時代後半以降の「世直し」運動とその一応の成功は、日本列島における国の枠組みや人々の意識に大きな影響を与えた。しかし、真正ヤマトが滅亡した四世紀の半ば以降、その思想・信条(宗教)は禁圧され、その宗祖ともいうべき百襲姫に対する信仰は迫害された。香川県東部には「百襲姫は罪を得て讃岐に流された」とする伝承がある。そのことは、真正ヤマトの崩壊後、百襲姫を信仰することが「罪」にあたるとされたことの反映とみなすべきであろう。「日本教」の宗祖とも言うべき百襲姫に対する信仰が迫害され、罪悪視される時代になったことは、その後の日本列島の人々の思想と行動にねじれた形で重大な影響を与えたであろうことは言うまでもないが、しかし従来の歴史学、あるいは歴史学者はこのことに気付いてこなかった。
 これらの“ねじれ”は、「世直し」という革命のあった事実や、「世直し」を推し進めた人々、なかでも最大の功労者であった百襲姫を避けようとする行為から生じたものであり、言い換えれば、百襲姫の罪(擬制ヤマトから見ての罪)に連座することを回避する行為に起源するから、そのような行為を「連座回避の行為」と呼んでおきたい。このような行為は、世界史的にも多くの例があろうが、一例をあげると、初期キリスト教の「イエス」の弟子たちの行為にみることが出来る。後に巌のような信念の持ち主という意味で「ペテロ(岩)」と呼ばれ、ローマ教会からは初代ローマ法王とも目されるようになる十二弟子の筆頭ペテロでさえ、「罪人」となったイエスとの関係を問われた時、連座を恐れて三度も「彼を知らない」と関係を否定したという逸話が『聖書』にある。これが史実であったかどうかは別として、このような「連座回避の行為」が日本古代史上には数多く存在している。これが古代史理解の大きな障害になっている事実に気付くべきである。
 別の機会に触れる徐福信仰や熊野信仰などは、「連座回避の行為」によって生じた百襲姫信仰の変形であると考えている。さらには、応神天皇を祭神とする八幡信仰もまた百襲姫が応神天皇に名を変えたものであろう。このことは、八幡信仰の起源である宇佐八幡宮では、その中心に祀られるのは、応神天皇ではなく「姫神」であることに表れている。姫神とは百襲姫のことであり、「連座回避の行為」による「ねじれ」現象の一つであろう。
 「連座回避行為」と思われるもう一つの例をやや詳しく述べたい。邪馬台国問題を解く鍵の一つは、古代における吉備国の動向にあったことは、吉備の円筒型埴輪が奈良の前期古墳から出ていることからしても明らかである。すなわち古墳時代前期までに、吉備の人々がヤマト国家成立に多大の寄与をしたことは、この一点からでも推測出来ることである。従って吉備の人々が、最大限の敬意をもってヤマト国家創成期に活躍した吉備の首長たちを「祖神」として祀るのは自然のことである。
 しかしながら、彼らに対する扱いが極めて不自然であったことを示す一つの証拠がある。『新校群書類従』にも引かれた「大日本国一宮記」は、全国六六カ国の一宮の社名・祭神名・鎮座する郡名を記録したもので、その原本の成立は、南北朝時代に遡るという。記載された各社の祭神は、今日とは異なるものが多く、その内容からして相当に古いものであると推定される。ここでは吉備国一宮である吉備津宮(現在の備中一宮である吉備津神社)の祭神だけを見ることにするが、そこには、
吉備津宮 (祭神は)孝霊(天皇の)皇子吉備津彦命には非ざるなり、孝霊三世吉備武彦命なり。備前・備中・備後三国の一宮なり。
とある。吉備津宮の祭神が孝霊天皇の子ではなく、三世の吉備武彦命であることを強調している。これを見ると、ある時代には吉備津神社は、孝霊天皇の子らを避けて、より時代の新しい人を祭神にしていたことがわかる(現在はそうではない)。由来やその名がはっきりしているならば、より古い時代の人ほど祭神としての価値が高いと思うのは常識である。しかし上の記事は、これを強く否定している内容である。これは「連座回避の行為」の典型であろう。「孝霊の子たち」の時代は、百襲姫を代表として「世直し」の時代であった。しかし時代が下り、「孝霊三世吉備武彦命」と表現された吉備武彦は、「三世」というのが正しいか否かは別として、ヤマトタケルの母方の祖父であり、景行天皇の義父にあたる。すなわち擬制ヤマトの時代に活躍した人物である。吉備津宮は、擬制ヤマト時代の人が祭神であることを強調し、「世直し」時代の人々との関係を強く否定しているのである。吉備の人たちが、ある時代から、「世直し」の時代との関係を断たざるを得ない事情に陥ったことを反映するものであろう。吉備に残る古代史関係資料は、真正ヤマトの成立を追究する上でも重要であるが、同時に擬制ヤマトへの転換を見極める上でも貴重である。上に引用した「孝霊皇子吉備津彦」と「孝霊三世吉備武彦命」の間に、真正ヤマトと擬制ヤマトの分水嶺が存在することを物語るものである。このような「世直し」時代の人々との関係を否定する「連座回避の行為」は、讃岐国、伊予国でも見ることが出来る
 興味深いことであるが、表向きは「連座回避の行為」をとりつつも、裏では伝説や民話あるいは神話の形で、真正ヤマトとのつながりを残している。このことに最大の注意を払うべきである。岡山・香川・鳥取などに特徴的に分布する鬼退治の主人公は、孝霊天皇の子、あるいは孝霊天皇自身になっている(孝霊伝承も百襲姫信仰の変形にほかならない)。この場合の「鬼」とは、要するに弥生の戦乱の時代そのものを指しており、戦乱の世を克服して原初のヤマトが成立したことを物語っている。これらの地方は、真正ヤマトの成立に最も寄与した地域であるが、同時に真正ヤマトの崩壊に最も「貢献」した地域でもあった。この鬼退治伝説の中にこそ真実の歴史が隠されていることは、考古学に照らしても明らかである。日本古代史の解明において、文字に書かれた歴史は建前であり、本音は神話や伝説・民話に語られていることを強く示唆するものである。
 この地方の鬼退治伝説は、全く意外なことに思われるであろうが、南島の鬼伝説と一対のものとして始めてその真実が解明できる。日本本土に残る資料だけで日本古代を解明することは不可能に近い。それは端的に言えば、日本本土における真実の資料のほとんどは、「連座回避」行為の積み重ねによって変形し、埋もれ消失してしまっているからであると言えよう。
 しかし幸いなことに、南島、なかでも沖縄本島の北部ヤンバルや離島の漁村の村々においては、弥生時代の日本で確立された定型勾玉を首にかけた神女たちが、「ヤマトから下った赤椀の世直し・・・」と唱えつつ、「世直し」を基調とする神祭りを今なお続けている。その勾玉という動かしがたい物証と神歌の精神は、沖縄地域に特徴的は民話・伝説と合わせ、「連座回避」行為によって日本本土では失われた真実のヤマトを蘇らせるカギとなる。

              ホームへ戻る