|
沖縄の神歌とヤマト・邪馬台国 (およそ5300字) |
第五節 沖縄の神歌とヤマト・邪馬台国
従来のほとんどの邪馬台国論が、統一国家成立の過程を、信長や秀吉の頃の戦国時代のように、地域間の覇権争いと、その拡大の過程あるいはその結果としてとらえたものであった。そのようにみる限り、どこが勝ち、どこが征服され、従って邪馬台国はどこだ、と所在地の問題が最重要問題にならざるを得なかったのである。しかし真実はどうやらそう単純ではなかったらしい。長い戦乱の弥生時代が経過するにつれ、個々の共同体(クニ)の内部で、人々の意識に大きな変化があった。弥生時代の体質とまでなった戦争の時代を、根本から変革すべく「世直し」を考える人々が出現してくる。これは単なる想像ではなく、種々の資料から説明できることなのである。最も有用な資料の一つは、沖縄の神祭りのための神歌群である。奄美大島以南の南島には、琉球王朝時代に編纂された「おもろそうし」とは別に、古くから村々の神祭りの場において、綿々と謡い継がれてきた、膨大なといってよいほど多数の神歌群がある。「赤椀の世直し」はその中に頻繁でてくるフレーズである。しかも「ヤマトから下りた赤椀の世直し」という表現は、「世直し」がヤマト由来の言葉であること、また次に挙げる勝連町の漁村の神歌には「神の生まれ立ちや、ヤマトのフソ(へそ)の御嶽」とあり、沖縄の人々の崇める「神」(人)がヤマトの中心(へそ)の国のお生まれであるとされること、などから神歌の中の古いものは、弥生時代から古墳時代前期の日本本土と直結する内容のものであるらしいことが判る。それほど長くもないこの神歌には、沖縄とヤマトの歴史を解くのに必要な、幾つかの重要な情報が含まれている。なおこの神歌のうたわれる勝連町の漁村とは、さきに示した地図のなかの与勝半島の突端にある。与勝半島の海岸からも最近弥生土器が相次いで見つかっているという。
ます神歌の大意を要約して示すと、「水と太陽の霊も寄りつく私たちの崇める神は、ヤマトの中心の国のお生まれである。この神を崇めるのは今や沖縄だけになってしまったが、スジを曲げないでこの神にお仕えし、ご御招請しょう。大和・山城から伝わった赤椀の世直し(椀)に、神酒を溢れるほどに注いで捧げます。」となる。この中に謡われる“神”とは、目に見えないカミではなく、生きて活躍した歴史上のある人物、あるいはそのグループであり、沖縄ではアマミコと呼ばれる一人の女性とその集団のことである。このことは追々述べることにする。
原歌 現代語訳
うーとーと
うー尊(あー尊:あー尊いことだ)
いづがぎー あめーらわん
いづ(水)掛け歓えても
てだがぎー ほくらって
てだ(太陽)掛け誇られて
神のうんまりたちや
神の生まれ立ちは
やまとのふそ(ん)のうたけ
大和のフソ(ン)の御嶽
うちなーならわん
沖縄だけになっても
よかるならわん
「よかる」になっても
すぢがもとたてて
スヂ(霊統)の元を立てて
うやの神は うんつけーしやびら
親の神におつかえし(御招請し)ょう
やまとからくだたる
大和から下った
あかわんのよのーし
赤碗の世直し
なかむらち うしゃくしゃびら
中盛らして御酌しょう
やしろからくだたる
山城から下った
くるわんのよのーし
黒碗の世直し
はたもらち うしゃくしゃびら
端盛らして御酌しましょう
(南島歌謡大成 沖縄篇 上 オタカベ121、勝連間切の三月六月両祭の趣意)
世直しと呼ばれる赤いお椀に、これもまた世直しと呼ばれた神酒を溢れんばかりに注いで神前にささげて、神とともに世直しを誓う、というのがこの神歌の元々の意味と思われる。数多くある神歌の中でも最も重要なものの一つであると考えるこの神歌の詳細な解説は最終章にまわし、ここでは、「私たちの崇める神がヤマトの臍(へそ)の御嶽(共同体、すなわち国の中心)のお生まれである」とされていること、またこれを唱える時、女(神女、ノロ)たちが、弥生時代の日本で完成した丁字型の勾玉を首に懸けて[佩(は)いて]いることを強調しておきたい。勾玉を佩(は)いて行う神祭りを現代でも行っている地域は沖縄だけであり、日本本土では古墳時代の前期、遅い所でも古墳時代後期には終焉したことは考古学上明らかである。「沖縄だけになっても」という神歌の表現は、この真実を言い表している。とすれば、この神歌の生まれた時期が推測でき、それは遅くとも古墳時代終末期までにはできていなければならない。飛鳥・奈良時代以降では、勾玉を佩いて行う神祭りは日本本土ではすでに存在したことさえ定かでなくなっていたと思われ、まして七世紀以降に、「ヤマト」との関係が断絶した沖縄の辺鄙な漁村の女たちが、日本本土で起こったこの事実を知り得る機会はなかったであろう。
このように考えてくると、現代まで続く沖縄の古くからの固有信仰が、もともとはヤマトの中心の国と直結したものであったこと、またこのような共通の神祭りを通した沖縄とヤマトの中心の国との紐帯が、古墳時代のある時期に断絶したであろうことを示唆している。注目すべきことは、このような古い時代に生まれたであろう神祭りと神歌が、沖縄では近年まで、部分的には現在もなお続いているという事実であり、驚嘆に値することといわねばならない。
この神歌の内容と神女の勾玉に対応するような考古学的事実が、近年明らかにされてきた。沖縄に由来する遺物・副葬品が、弥生時代前期末から古墳時代前期までの遺跡から出土することが判ってきたのである。九州はもちろん、瀬戸内地方、近畿、さらにそれ以北の遺跡・古墳から出土する「太陽の巻き貝」、「世直しの牛貝」という沖縄名を持つゴホウラ貝や水字貝などで作られた腕輪あるいは装飾品、もしくはそれらを石で「模造」した遺物がそれである。さらに注目すべきことは、それらのいわば沖縄形遺物・副葬品は、古墳時代の前期を境に忽然と跡を絶つのである。(ただし、九州と関東に限れば、古墳時代後期まで継続する)。これらの遺物の存在は、既に江戸時代から知られていたことであるが、中国・朝鮮半島にはほとんどない日本独特の「貝文化」とも呼ばれるこの特異な風習の起源、あるいは少なくともその遺物・副葬品の起源が、沖縄諸島にあることが明確にされたのは最近のことである。九州大学の人類学者永井昌文氏が一九六九年に、それらの遺物・副葬品の元になった「ゴホウラ貝」が沖縄諸島産出のものであることを確定してはじめて判ったことである。ゴホウラ、イモガイなどを用いた南島の「貝文化」は、九州・瀬戸内に伝わった後、材質を青銅あるいは石に転換しつつ近畿地方、さらに中部・関東にまで運ばれている。
腕輪の材質が貝から青銅や石に転換した理由を“貝が不足したから”とか、“好みが変化したから”という見方がある。しかしこれらの貝の沖縄名から推察されるように、これらは単なる装飾品などではなく、高い政治的象徴性を持った考古学的遺物であり、この材質転換の持つ意義は極めて大きいと思われるのである。その意義を一口で表現するならば、貝で象徴される「太陽と世直し」を標榜する集団が、石と青銅を扱う銅鐸集団を取り込みながら拡大し、東遷・北上していった考古学的証拠と見なすことが可能である。このことは風土記や古事記(記)・日本書紀(紀)の神話に照らして順次明らかにされるであろう。三品彰英氏はかつて、銅鐸から銅鏡への祭祀用具の変換を「地的宗儀」から「天的宗儀」への変換と説明したが、“貝輪の材質転換”を考慮に入れれば、その具体的プロセスを明確にできるのである。
ところで奈良県には邪馬台国の中心都市とも目されている纏向遺跡があり、倭迹々日百襲姫の墓ともいわれる箸墓(箸中)古墳を始め、出現期の古墳が幾つかあり、ヤマト国家の成立を解明する上で重要な遺跡である。これらの古墳の内部(埋葬施設)はほとんど調査されていない。これらの出現期の古墳を含めた前期古墳の副葬品を全国的に集計すると、最も多い副葬品は、沖縄産の貝を石や青銅に材質転換した鍬形石や車輪石などの〈沖縄的〉副葬品なのである。これらは、奈良に限らず全国各地の前期古墳の副葬品として、ほとんど常に出土するものである(【巻頭図説-4】参照)。北部九州においても、中国鏡はゴホウラ(太陽の巻き貝)の腕輪より少し遅れて出現したものである。両者とも太陽を象徴するものであると考えられるから、銅鏡もやはり沖縄産のゴホウラの持つ「太陽」という象徴性を、形態と材質の両面ともに転換した副葬品の一種と見なせると考えている。そうであれば三角縁神獣鏡などの銅鏡の問題を考える際に考慮しなければならない重要な観点である。私は中国の鏡を模倣して作ったとされる国産の銅鏡、いわゆる「倣製鏡」は、銅鐸を破砕してこれを太陽を象徴する祭器として「再生」させる際に、腕輪(銅釧)への転換だけでは材料(銅鐸破砕片)が余るので、窮余の策として考え出された「世直し」運動の一種の副産物、あるいは二義的遺物とみなすべきものであると考えている。昨今、邪馬台国論といえば銅鏡が論議の主役となっているが、二義的遺物を中心に据えた研究では問題の核心に迫りえないであろう。貝から金属あるいは石への材質転換は、日本神話、風土記、また琉球王国の国家起源伝説として、比喩的な形でではあるが詳細に語られている。
初期ヤマト国家の成立にとって、沖縄が直接的にあるいは間接的に、重要な関係を持ったことは、これらの既に知られた考古学的副葬品から推察されることである。何故に初期ヤマト国家の時代の遺跡に沖縄形副葬品が豊富に存在するのか、そしてそれらが古墳時代前期を限りに跡を断つのか、その理由を明らかにすることは初期ヤマト国家の本質を知る上で重要であるが、総合説ではこれから述べる七つの仮説のうちの第二の仮説で説明される。
一方、文字として記載された歴史の上で、「南島」の一部として屋久島が始めてヤマト国家の版図に入ったのは、それから三○○年近くも後の西暦六一六年であり、まして沖縄が日本の歴史に登場するのはさらに後の時代であって、しかもそれは「食人国」のイメージを伴った極めて悪いものであった。日本本土からみた沖縄に対するイメージについて、古墳時代前期までの「先史古代」と、それ以後の歴史時代との間には想像を絶する落差がある。本土にとって「先史古代」の沖縄は、国々の首長の権威の象徴を産出する“あこがれの国”であったが、飛鳥・奈良時代以降は次の引用にみるように“人食い鬼”の島であった。
日吉山王社の霊験絵巻『山王絵詞』には次のような話がみえる。平安初期の八五三(仁寿三)年八月、智証大師(円珍)らの船が宋へ渡海する途中で遭難し「流球国という異境人のしま」に漂流した。船から岸の方を眺めると「数十の、鉾を持て徘徊」する光景が眼に入り、乗組員が「琉球は人を食う国だ、助けてくれ」と和尚に泣きついたというのである。さらに円珍とは別の入宋者の「琉球」体験を記した『漂到流球国記』にも、食人国の話が登場する。これらのイメージは、『隋書』流求伝の記事から流布したのかもしれないが、中世の都びとの「琉球」に対する観念が「人食い鬼」のイメージに形象化され、畏怖と蔑視観をもってみていたことは確かである。(真栄平房昭「琉球の形成と東アジア」『新版古代の日本3−九州・沖縄』)
ここに述べられている「人食い鬼」の話は、意外なことであるが、日本国家の起源を解明する上で重要な鍵であることを、最終章で詳しく述べる。決して『隋書』流求伝の記事から流布したという軽いものでなかったのである。このように沖縄諸島が日本本土の人々にとって、“あこがれの国”から“人食い鬼”の島にどのような経緯で“転落”したのか、いかなる「説明」もできない現行の「日本史」に大きな欠陥のあることは明らかである。この「説明」の中にこそ失われた日本国家の起源を解明する鍵が潜んでいると思われるのである。しかしこの「落差」を問題とも思わない歴史の専門家に、正しい「説明」を期待するのは無理というものであろう。私は歴史の専門家ではないが、現代にまで影響の及んでいるこの「落差」を、直接心身で感じながら育った者の一人であるが故に、その「説明」を自ら試みようとしているのである。
私がこの「説明」のために組み立てた大まかな枠組み(パラダイム)を、以下に七つの仮説として示す。それは「邪馬台国総合説」の全体像を理解するために必要な前提として示したものであるが、日本古代史の真実を理解するために必要な新しいパラダイムにほかならない、と考えている。
追記(再掲):沖縄諸島の神歌に関する文献
(『邪馬台国総合説 赤椀の世直し』の「おわりに」から、一部抜粋し以下に掲げます)
沖縄諸島の神歌について、読者は多大な興味を持たれたことと思う。一般読者が廉価で入手できる神歌に関する書籍は極めて少ない現状である。しかし幸いなことに、名護市教育委員会から、『やんばるの祭と神歌』が三千円程度の低価格で発売(一九九七年)され、現在も同委員会に連絡すれば入手可能である。私の『総合説』は、この『やんばるの祭と神歌』に触発されて成ったものと言っても過言でない程に刺激を受けた。読者にも一読をお奨めしたい。琉球諸島全域の神歌に関する体系的な集成本としては、外間守善氏らの編著になる『南島歌謡大成』(全五巻、角川書店)があり、極めて優れた基本資料である。しかしながら高価な上に絶版となっており、古本価格で三十万円に近く、一般読者には入手困難であろう。古い神歌部分だけを抽出した廉価版の発行が望まれる。