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は じ め に |
『邪馬台国総合説 赤椀の世直し』Online へようこそ!!
まず二枚の写真を貼り付けた次の「画像」(青色文字)部分をクリックして見ていただきましょう。これらの写真にある奇妙な形の物は何でしょうか? 日本古代史を多少勉強された方でも、それが何であるか、答えられる人は多くないと思います。
画像:奈良の中心地から大量に出る沖縄形副葬品
(ここをクリック)
こららの石製品は、沖縄諸島の巻き貝や二枚貝の形を石で作ったものであり、原初ヤマト政権の王権のシンボルとして、三角縁神獣鏡と同じ時代、奈良を中心に分布するものです。原初ヤマト国家が成立した当時の政権の中心部に、何故に「沖縄の形」が大量に存在したでしょう。従来の常識では決して解けない深い謎です。『邪馬台国総合説 赤椀の世直し』は、この問題を真正面から解明します。これらの沖縄を記念する動かせない物証と、弥生時代の勾玉(まがたま)を首にかけた沖縄の神女(ノロ)たちが謡う「神歌」は、日本古代史を解明する決定的なカギになります。
このサイトに著書(『邪馬台国総合説 赤椀の世直し』)の全文を載せることはできませんが、限られたページのなかで、「総合説」の全体像を理解いただけよう努めました。順次、ご覧いただき、「掲示板」にご感想などお寄せください。
以下に本書の「はじめに」の全文(およそ3800字)を掲載してあります。ハイパーリンク(青字部分)によって本にはない解説も付加してあります。
2001年4月17日 著者
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『邪馬台国総合説 赤椀の世直し』本文から
「はじめに」
近年の考古学の成果によれば、日本列島規模における初の統一政権は、西暦250年頃、奈良県桜井市の巻向(纏向まきむく)の地を中心に成立したらしい。本書「邪馬台国総合説」で説く「邪馬台国」とは、その巻向を中心に成立し、百年足らずの短期間(古墳時代前期)で滅び去った原初のヤマト国家のことである。
『魏志(ぎし)』倭人伝にいう邪馬壹国(やまいちこく)は、邪馬台国(やまたいこく)あるいは倭国(わこく)とほとんど同義であり、その倭国の女王とされる卑弥呼(ひみこ)は、巻向の初期古墳群の中でも、ずば抜けた規模をもつ箸中(はしなか、あるいは箸墓はしはか)古墳の被葬者とされ、古事記、日本書紀では七代孝霊(こうれい)天皇の子と位置づけられている倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒ・モモソヒメ、以下、百襲姫モモソヒメ)であるとする立場をとる。
その理由の一つは、百襲(ももそ) という言葉が、沖縄において百浦襲(ももうらそ、あるいは百浦添ももうらそえ)の省略形として、発音も用字もそのままに、国王、あるいは国王の坐す「首里城正殿」すなわち国家統治の要を意味し、従って倭迹々日百襲姫の名は、「邪馬台国の女王」の意味を含んでいるからである。とはいえ、総合説は従来の単純な邪馬台国「畿内」説に与(くみ)するものではない。
古墳時代前期(およそ250〜350年頃)、すなわち原初ヤマト(あるいは「真正ヤマト」)の時代に限って、大和(奈良)を中心とする「畿内」の古墳の中から、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を上回って出土する副葬品(死者に副えられた物品)は、日本列島では沖縄本島とその周辺の離島だけで採取された巻き貝(ゴホウラ貝など)を象った腕輪製品【鍬形石(くわがたいし)、石釧(いしくしろ)、車輪石など】であり、この奇妙な現象を従来の単純な「畿内説」で説明することは困難である。
この事実を説明可能ならしめる資料として、沖縄諸島の、特にヤンバル(山原:名護市を中心とする沖縄本島北部)や与勝(よかつ)半島などの海辺の村々に伝承された神歌群を採用する。弥生時代中期の九州で完成した丁字頭勾玉(ちょうじがじらまがたま)を首に懸けた神女(ノロ)たちが、神祭りの場で謡うその神歌群を貫く主旋律は、「世直し」すなわち「革命」である。
神歌には「ヤマトから下りたる赤椀(あかわん)の世直し」というフレーズが定型句として数多く登場する。それらの神歌によると、日本本土から沖縄に「国の直さを取りにまいられた」人々が、沖縄に(そしておそらくは日本本土各地にも)伝えたものは「世直し」の思いであった。そのことが示唆するものは、弥生時代中期以降の日本本土の社会が、稲作と金属文明のもたらした戦乱の時代であったと同時に、一方ではそのような「戦乱の世」を座視できない人々による「世直し」の時代であったことである。
戦乱のなかった沖縄諸島に「国の直さ」(神歌の中の言葉:「平和な社会」を意味する)を発見し、沖縄をいわば「ひな形」として、その「太平の世」を日本列島全域に回復することを目標とする「世直し」の運動が北部九州を起点として発生した。「世直し」の思いを「太陽の巻き貝」と称されたゴホウラや、「世直しの牛貝」という名のスイジガイ(水字貝)に込め、「銅鐸(どうたく)」・・・おそらくそれは、ワニ(サメ)を形象して造られ、農耕と水のシンボルであったが、変質して「戦乱の世」の守護神とみなされた・・・を破壊し消滅させるべく、国家間の連帯運動を進め、その結果誕生した連合国家が「邪馬台国」にほかならない。
水争い、土地争いを助長する戦争の象徴とみなされるようになった銅鐸信仰の時代そのものが「世直し」の対象であった。沖縄を理想のクニ(常世の国)として北部九州で始まった「世直し」の運動は、連帯の輪を拡げつつ、長期の停滞期(弥生時代後期の前半)をはさみながらも瀬戸内海・四国・中国地方を東進し、二五〇年頃、ついに巻向(まきむく:纏向)を首都(百浦襲ももうらそ:百浦添あるいは百襲)とする連合国家を成立させたのであった。
「邪馬台国、あるいは女王国はどこか」という問いに対しては、「いつの邪馬台国のことですか」と時期を特定して答えるべきである。邪馬台国連合政権は、西暦紀元前後には倭国(連合)といわれて、その政権の中心は北部九州にあったが、賛同するクニの数を増やしつつ、二五〇年頃までには奈良にまで到達した。しかし、おそらく「戦わないこと」を中心理念(あるいは最終目標)として、長年月の運動の結果生まれた日本列島規模の初の統一国家である原初ヤマト連合は、百年足らずで「崇神(すじん)天皇」によって滅ぼされる。軍事力を背景に「独裁」を統治理念とした崇神(すじん)、垂仁(すいにん)、景行(けいこう)と続く新政権が誕生し、真正ヤマトの生みの母胎ともいえる沖縄との関係は断絶した。新「ヤマト」政権(総合説では「擬制ぎせいヤマト」と呼ぶ)は、近・現代にまでも続く絶対天皇制の元となったと考えられる。
以上に述べたことが「総合説」と名付けた私の邪馬台国に関する一仮説の概要である。このことは、東北南部までを含む全日本的規模における沖縄産ゴホウラ製の貝輪(またはその形を真似て造られた石製品)の分布と消長、および沖縄の神歌からおおよそ推量できることなのである。
日本の弥生〜古墳時代の謎を解く決定的な鍵が、意外にも沖縄の資料であることに読者は驚くであろうが、しかし本書を読み終えられた後、失われた古代の真実は、むしろ失われた「真のヤマト」が色濃く残る沖縄・奄美にあることが当然であることに気付かれるであろう。
奈良の地に樹立された原初のヤマト政権は、全く意外であるが沖縄と密接不可分の関係にあった。というより、沖縄は原初ヤマト国家(時に「真正ヤマト」と表現する)の生みの母胎であった、という表現の方がより正確であろう。
日本本土では滅亡したはずの「真正ヤマト」が、沖縄本島の、特にヤンバルと呼ばれる北部の海辺の村々に、「神祭り」とそのための「神歌」の形でではあるが、今なお生き続けている。「赤椀の世直し」とは、その神歌に謡われる主題であるが、それらの神歌は「真正ヤマト」すなわち邪馬台国の胎動期(弥生時代前期末〜中期)から原初ヤマト国家の時代(おおむね古墳時代前期)が、「赤椀の世直し」、言い換えれば、主として女たちによる革命の時代であったことを示す有力な資料となる。本書を沖縄本島の民俗と考古学から説き起こし、最終章において再び沖縄・奄美の伝説・民話を採り上げるのも、それらが日本本土の失われた古代の再生に必要不可欠のものだからである。
沖縄の諸資料を重要視するからといって、「総合説」が琉球大学・木村教授の説く「沖縄・邪馬台国説」の二番煎じでないことは、さきの説明で明らかである。(奄美・沖縄が、邪馬台国連合国家群の中でも特別な一員であった、という意味に限定すれば木村説も誤りとは言えないのであるが・・・)。
各種の古代史、あるいは邪馬台国関係本を読んで常々感じることは、それぞれの著者の思い込みの激しさである。それはおそらく夫々(それぞれ)の扱っている世界(分野)の狭さと強い固定観念に原因がある。他の分野を視野に入れている人からみれば、それらが常識外れの議論にみえてくるのは当然である。本書もまた、そのような思い込みに陥る危険性は避け難い。その危険を避ける方法の一つとして、最新で最高の「常識」の集成である百科事典類に絶えず依拠しつつ論を進めることにした。小学館の『日本大百科全書』(以下『日本大百科』)と平凡社の『世界大百科事典』(『世界大百科』)は、両者ともデジタル化されて利用に便利であり、その中の関連項目を適度に編集しつつ引用した部分が多い。沖縄関係では『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社編)(『沖縄大百科』) を多用した。
現代と未来に関わる問題を含んでいるという意味で、本書は古代史ファンだけでなく、中・高校生などの若い人たちに特に読んでいただけるよう、できるだけ平易に書き進めたつもりである。引用する古い文献は現代訳により、また現代文の引用であっても、冗長な部分は読みやすいように、断りなく編集した部分が少なくない。もとより原意に変更を加えたつもりはないが、引用部分を再利用(孫引きなど)の際は、出来るだけ原典を参照されたい。
民俗学の分野では谷川健一氏の著書から、また考古学の分野では森浩一氏と木下尚子両氏のそれぞれの著書から、多くを学び、図版を含め数多くの引用をさせていただいた。ここに謝意を表わしたい。 しかし、本書で述べられる内容は、これらの諸先学を含む全ての先行する論者の史観とは異なったものとなっている。もちろん私は、本書で説く「総合説」が日本古代史の真実に最も近いものであると考えているが、客観的にみれば、さらに多くの説明と十分な検証を要する粗々(あらあら)とした一仮説に過ぎない。そうではあるが、本書を一読された読者は、これからの邪馬台国論、あるいは日本国家論がこの仮説抜きでは語れない新しい段階に至ったことを感じられるのではないか。
この一仮説をなぜ大げさに「総合説」としたか、その説明はあえて省いた。一つだけ挙げれば、これまでに主張されてきた各種の邪馬台国論のほとんど全てを包摂(ほうせつ)し得るものであるから、と言えばかなり誇張した表現となるであろうか。読者の判定にゆだねたい。
本書は私の構想する「総合説」・・・その記述に少なくとも三冊は要する・・・の第一冊目である。一冊目とはいえ、荒っぽいタッチながら総合説の全体像を盛り込むよう努めたので、本書一冊のみでも読者に相当の満足と十分な刺激を与え得るものと思う。目次のすぐ後に、「総合説」の全体像を図解した「巻頭図説」数ページを置いた。古代史になじみの薄い読者には、濃縮し過ぎた記述になっているかも知れない。読解に困難を覚えられたら図だけを拾い読みされた後、ただちに本論(序章)に進まれたい。
[このホームページには、本論(序章)の極く一部だけを掲載してあります]