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縄文時代の後・晩期の頃、中国大陸や朝鮮半島から伝わった水田稲作と金属の文明は、日本列島に繁栄をもたらした一方で、少ない水資源をめぐって、村と村、人と人が合い争う「弥生時代」という戦乱の時代をも齎(もたら)した。しかし、およそ600年間続いた弥生時代の全期間、全国なべて戦いに明け暮れたわけではなかった。
混乱のさなかにあった 弥生時代前期末から中期の初め頃の 北部九州において、 沖縄・奄美を戦乱のない「ユートピア」(常世の国)とみなし、その「太平の世」を日本本土に回復しようする「世直し」の連帯運動が発生した。 原初ヤマト国家(倭国≒邪馬台国)は、その「世直し」が拡大・発展した結果生まれたものであった。その連合政権の中心、あるいは活動の中心は、参加するクニグニの増加・拡大とともに、必然的に、しかもゆるやかに東方に移動しつつ、3世紀半ば頃には「大和・山城」(畿内)にまで到達、そこを首都とする平和を目指す連合国家として成立した。 しかし、卑弥呼(ひみこ)、壹与(いよ)に代表される女性の「宗教的権威」を尊重する、いわば「シャーマニズム的民主政権」は、崇神、垂仁、景行と続く「軍事的独裁政権」の成立により、わずか数十年の短期間で滅亡した。 しかし唯一、沖縄では、その政権の思想を長く受け継ぎ、神祀りの歌謡(神歌)として、廃れつつあるとは云え今もなお謡い継がれている。神歌の多くに「ヤマトから下りたる赤椀の世直し」と謡われることから、意外なことにその中心思想は「世直し」、すなわち革命であったらしいことが分かる。「世直し」とも呼ばれた「赤椀」とは、弥生中期の北部九州で作られ、朝鮮半島を含む各地へ広く伝播した赤彩色の須玖(すぐ)式土器のことと想定される。須玖式土器の表面には、遠賀川式(弥生前期)土器からは消えていた縄文の印の「突帯紋(とったいもん:土器の表面に縄状の帯を巻いた一種の飾り)」が復活する。「世直し」が縄文的平和社会への一種の復古運動であったことを物語る。 |
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このホームページで述べられる多次元的な邪馬台国論は、従来ほとんど無視されてきた沖縄の諸資料をとり入れることにより、失われた邪馬台国と日本古代史の真実を復元しようとするものです。神祭りの場で沖縄の神女(祝女;ノロ)たちは、現代でもなお弥生時代中期北部九州由来の定型勾玉を懸けて「神歌」を歌う。弥生時代から歌い継いできたと思われる沖縄の膨大な数の古い歌謡群は、卑弥呼の時代、すなわち女たちが政権の首座にあった原初ヤマト(倭国≒邪馬台国)の時代を復元する貴重な歴史資料となります。 「邪馬台国総合説」は沖縄の資料を重視しますが、「邪馬台国・沖縄説」とは異なり、邪馬台国(原初ヤマト)政権の中心は3世紀半ばには奈良にあった、とする立場は畿内説に近いといえます。しかし三角縁神獣鏡と同じ時代、畿内を中心に分布する沖縄原産の巻き貝(ゴホウラ貝)を形象した数多くの遺物・遺構の存在は、邪馬台国が「畿内」の弥生文化の中から独自に生まれたとする単純な説では説明不可能です。原初ヤマト政権(邪馬台国)を生みだした思想的根源は、北部九州と沖縄の交流の中から発生したものと考えられます。その意味では九州説に近いでしょうか。 |
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「 邪馬台国総合説」とした本論の要点を以下の7つの問いとその答えで示します。
1 邪馬台国とは? 2 邪馬台国はどこ? 3 邪馬台国問題を解く鍵は? 4 邪馬台国時代の社会を一口で云えば? 5 邪馬台国と対立したクナ国やその官ククチヒコとは? 6 倭国(≒邪馬台国)の女王・ヒミコとはどのような人? 7 邪馬台国や卑弥呼、沖繩のことが不明となった理由は? |
1 邪馬台国とは?
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弥生時代前期末〜中期(およそ2100年前)の北部九州において、沖縄産の巻き貝(ゴホウラ貝)の腕輪を政治的シンボルとする不戦・連帯を目指すワ(輪、和、倭)の国運動が起こった。この社会改革運動(沖繩の神歌にいう「赤椀の世直し」)は、大地と水のカミ銅鐸を破壊してカガミ(小型倣製鏡)や銅鉾・銅剣に作り替えながら拡大・発展し、一時の停滞期をはさみながらも、瀬戸内、畿内の(「世直し」)勢力に受け継がれ、250年ごろまでには奈良を中心とする統一連合国家をもたらした。邪馬台国とは、北部九州に始まり、瀬戸内・畿内、さらには東海、北陸、東北南部にまで共鳴的に拡大発展して生まれた不戦・平和をめざす連合国家のこと。九州時代は倭の国(連合)であったが、瀬戸内・畿内へと拡大した時代に邪馬壹国(山五ヤマイツ国)という一時的名称を経て、邪馬台国(山十ヤマタリ、ヤマト)へと変化・発展した。邪馬台国とは、国(山ヤマ)の全て(十ト)による連邦の意味。 |
2 邪馬台国はどこ?
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「国際連盟」あるいは「国際連合」というクニはどこにあったか? という問いと同様、クニグニの連合体であった「邪馬台国」の所在地を問うことは、あまり意味を持たない。「(女王の都する)連合政権の中心地」は、拡大・発展に伴って移動したであろう。初め(弥生中期の初頭)は北部九州にあった。(ただし、この時代には「*倭国(わのくに)」という名称であった)。弥生最末期(?古墳時代前期:250年頃)までにはその中心は「畿内」まで移動した。それまでの中間期においては、200〜300年の長年月かけて国東半島(大分)、高縄半島(愛媛)、三崎半島(香川)の各周辺へと移り、最終期には吉備・讃岐・阿波・美濃・尾張などの畿内を取り囲む周辺地域が革命運動の重要地域であった。世直し(革命)は西から押し寄せてきた大波ではあったが、同時にそれぞれの地域(クニグニ)の内部からの変革によって拡大・発展したものと理解しなければならない。 * 「国際連盟」から「国際連合」に変わったように、九州弥生中期の倭国(連合)から中間的な「邪馬壹国(やまいちこく)」を経て、最終的(弥生末期〜古墳時代前期)に、近畿、畿内をも抱き込んだ「邪馬台国」へと変化・発展したものと思われる。奈良時代に「倭」をヤマトと読んでいることは明らかで、倭国から邪馬台国へ連続したことの証であろう。 |
3 邪馬台国問題を解く鍵は何?
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邪馬台国を理解する第一の鍵は意外にも沖繩の資料である。政権の中心地が北部九州から畿内に移っても、その間4〜500年の長期間、政権のシンボルは一貫して沖繩産巻き貝ゴホウラの腕輪の形であった(前方後円墳の形もゴホウラに起源のある「鍬形石」と相似である)。その形の意義は、沖繩の神女(ノロ)たちの歌う弥生時代由来の神歌と沖繩の伝説・民話に語られている。沖縄の諸資料を糸口として、日本列島全ての地域の考古学、民俗学資料をつないでいけば、隠され、埋もれてしまった歴史をよみがえらせることが出来る。古事記、日本書紀、風土記など政権側で作られた資料は、特別な民俗資料として、その価値は想像以上に高い。また今日、各地の市町村史、県史などの記録(地方史)となっている民俗資料、さらに中小の神社仏閣の由来書なども重要な解明の糸口となる。 |
4 邪馬台国時代の社会を一口で云えば?
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水田稲作と金属文明のもたらした水争いに起因する混乱の時代であった、と同時に、それを克服しようとする社会改革運動(「赤椀の世直し」)の時代であり、混乱(争い:戦乱)のなかった沖繩を「太平の世」のひな形とする一種のユートピア運動の時代であった。 |
5 邪馬台国と対立した狗奴国やその官、ククチヒコとは?
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狗奴国(クナ国)とは「木の国(紀伊国)」であり、「狗古智卑狗(ククチ・ヒコ)」とは「木の神」である「クク(ノ)チの神」のこと。根の国(出雲)で発生し「木の国(紀伊半島、畿内、中部地方などの東の国々)」で発達した銅鐸のカミ(出雲大神)のことで、ワニ(サメ)を形象して作られた「水の神・農林業のカミ」であったが、水田稲作のらん熟から戦乱が派生すると、戦争の守護神とみなされた。「世直し」は、戦乱を誘発し助長した銅鐸信仰(地の宗義)の時代を終わらせ、名目的に太陽信仰(天の宗義)の時代へと社会を変革することであった。 |
6 倭国(≒邪馬台国)の女王・卑弥呼とはどのような人?
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淡路島の女性(オオヤマト・クニアレ姫:ヤマト国家を実現させた女性の意味)を母とし、狗奴国の「世直し」勢力から出た特異な出自の女性で、名は倭迹迹日百襲姫(ヤマト・トトヒ・モモソヒメ:百襲姫は沖繩の古語では女王を意味する)。7歳で狗奴国を追われ、讃岐東部で幼年期を過ごし(メニュー「百襲姫和讃」参照)、成人すると高縄半島を根城とした瀬戸内の海民と「世直し」勢力によって連合国家の象徴として推戴された。伊予水軍の伝承「予章記(よしょうき)」において、その祖とされる「伊予王子」は百襲姫と同じく「孝霊天皇」を父とする。おそらくは百襲姫と「伊予王子」は、義理の姉弟関係か。またヒミコの後継者・壹与(いよ)は「伊予(いよ)王子」の子であろうか。そうであれば、壹与はヒミコの姪にあたり、「卑弥呼の身内の一女・壹与(いよ)を後継者にした」という『魏志』倭人伝の記述に整合する。 |
7 邪馬台国や卑弥呼、沖繩のことが不明となった理由は?
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女性たちが主導し、世直し(革命)によって誕生した原初のヤマト国家(邪馬台国)は、崇神に始まり、垂仁・景行と続く軍事的独裁政権によって滅ぼされたから。後続政権は坂の神、三輪山の神(いずれも銅鐸)信仰を復活させ、畿内を中心とする武力・独裁政権を拡大していった(実質的な「狗奴国」の再興)。唯一、その 独裁政権に服属しなかった沖縄は、「人を喰らう鬼の住む島」として後の「ヤマト」政権からは敵視、またはタブー視され続けたが、失われた原初ヤマト(邪馬台国)の問題を解く重要な鍵を温存してきた。 |
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補足・解説 沖縄・奄美には、海辺の村のノロ(神女)たちの歌う「神歌」と称される古い歌謡群がある。膨大(ぼうだい)な数のこれらの神歌の主題は、全く意外であるが「世直し」、すなわち革命である。女たちは弥生時代の勾玉(まがたま)を首に懸けて、「ヤマトから下りたる赤椀の世直し」と歌う。それぞれに節の付いたこれらの神歌は、女性たちによって先導される神祀りの場において、卑弥呼の時代に先立つ弥生中期以来、綿々(めんめん)と歌い継がれてきたものであろう。 沖縄の神歌群は、日本本土の弥生時代の後半が「赤椀の世直し」、すなわち主として女たちによる「社会変革」の時代であり、稲作と金属文明のもたらした戦乱の時代を克服するための大革命(大乱)の時代であったこと、また「邪馬台国」は、その革命運動が北部九州を起点に拡大発展した連邦国家であり、「平和を目指す小中国間の国家連合体」であったことを示唆する。 弥生時代の北部九州から瀬戸内海地方にかけて分布する沖縄産巻き貝(ゴホウラ・イモガイ)の腕輪、および、古墳時代前期の畿内を中心に分布する沖縄の巻き貝起源の石製品(鍬形石、石釧、車輪石)の普及と消滅の過程は、原初ヤマト(邪馬台国)の成立と崩壊の経過を明らかにする鍵となる。銅鐸の消滅と青銅のカガミの隆盛は、それに付随した密接不可分の二義的現象と理解しなければ、邪馬台国問題を含む日本古代史の謎は解けない。
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